内田 樹の「街場の現代思想」っていう本が面白かったので、メモ。

まだ途中だけど。帯に
「身の回りの根源的な問いが、初めて腑に落ちて納得できる本。」
と書かれているのだけど、それは・・・うーん。。
面白いのと納得できるかどうかってのは別問題かもしれません。

まず最初に「文化資本の偏在」によって
「階層化社会」が生まれつつあるっていうところ。

「文化資本」ていうのは生まれながらにして身につく
素養みたいなもので、平たく言うと「育ちのよさ」って事です。


物を見る目とかマナーとか作法とか、
「教えよう」とか「習わせよう」、
または「自ら学ぼう」という努力によって培われるものではなく、
むしろ、それを得ようと努力すると、どんどん遠ざかっていくものである・・・のだそうだ。

そして、階層化社会では「努力とは関係なしに
もともとそれを持っていた人が勝ち、総取りする」
のだという。



努力すればするほど「後天的に文化的素養を身に着けた」
という二流品の烙印を自ら押すことになり、
屈辱を味わうことになる社会なのだそうです。


そもそも「他人からどう評価されるか」という事が、
自分で自分を、または他人が自分を評価する基準であるとすれば、
「持たざる者」にとっては、はじめから負けることが決まっている
長いレースを延々走らされるようなもので、
それは、ただただ辛いだけだろうなあ、となんとなく思います。



自分の努力が正等に評価されないヨノナカっていうのは、
誰にとっても幸せとは言えない社会だと思うので、、

そういう階層化された社会(個人の努力と自分の評価の関係がない社会?)
になる事を先送りするために、

「一億総プチ文化資本家」という概念を提唱してるんだけど、
みんなほんとに、そういう「だいたい誰もがおなじくらい」
っていうのを望んでいるのかなあ?と思ってしまった。



●負け犬と勝ち犬について

ここがいま読んだなかでは一番面白いところで、
「負け犬」つまり未婚・子なしであり、
扶養家族に縛られない人たちを「現代のランティエ」と例えている。

ランティエっていうのは19世紀のフランスにおける高等遊民のことで、
結婚もせず定職にもつかず、暇をもてあまし、
でも生活はそこそこできてしまう人たちのことだ。

なんで生活ができてたかっていうと、
先祖が残した財産を食いつぶしてるからなんだけど、
わかりやすい例としてあげれているのは、
シャーロック・ホームズとか明智小五郎とか、
ひたすら自分の趣味に没頭して各地を歩き回りつつ
俳句をひねりだした松尾芭蕉とか、そういう人たちのこと。


結局、人間ある程度「暇」で「なにものにも束縛されない」っていう状態じゃないと、
ただ生活に追われるばかりで、
なかなか文化的なものに目が向かないわけだから、
つまりそういう暇で小金を持ってる
「負け犬」こそ、文化の担い手なのだ!という事だそうです。



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